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生活単位としての集団と個人

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集団→個人→?

「戦闘指揮の最小単位は徐々に小さくなり、最終的には個人になる」との見方を、石原完爾は、昭和15年という段階で語っています。彼自身の歴史上の位置づけについては触れないでおきますが、この視点は現代において、軍隊だけではなく、社会全般においても現実味を帯びてきているように思います。

試しに「戦闘指揮」という部分を、「生活」としてはどうでしょうか?  過去の農業社会において、機械化以前は、集団で生活をすることが生きるために必須であったと思われます。それに比べて、今、生活する分には、いわゆる集団生活をすることは必須ではないのではないでしょうか。実際に、近所との付き合いを密にしている人は、はたしてどれくらいいるでしょうか?  少なくとも、私は自分の隣に住んでいる人が、どんな人なのかをほとんど知らないといったレベルです。仕事にしても、モバイル技術の発達や、情報インフラの整備などで、個人という単位での仕事や動きが、より重要度を増しているのが現状ではないでしょうか。昔は、公式文章をタイプする専門部署があったと聞きますが、今は出先であっても、ノートパソコン1つで文書作成が可能(実は、この文章も喫茶店で書いています)です。雇用についても、近年は個人の力で会社を選び、キャリアアップをしていくような人の話をよく聞きます。

生活面に話を戻しますと、例年、私の住んでいるマンションでは、新年のゴミ出し日を守らない人が少なくありません。5日が新年1回目のゴミ出し日なのですが、その数日前には、ゴミ捨て場にゴミが結構出ています。ゴミの種別に無頓着な方もいます。こんなところにも、今の世の中があらわれているのでしょうか(単に自己中心的な人が住んでいるだけなのかもしれませんが…)。

皆さんの身近なところにも、こんな話は結構あるのでは?

では、個人化した社会は、今後どこに向かっていくのでしょうか? これは私の勝手な予想ですが、また集団に戻るのではないでしょうか。いくら個人として生活していたとしても、やはり生きていくうえで、何らかの人とのつながりを持ちたい欲求が生まれると思います。それは以前の、農業社会での生きるために必須で存在した集団ではなく、それぞれの意思によって、自発的に結びつきたいという思いからできる、場所や地位などの縛りの少ない集団になるのではないでしょうか。マズローの欲求でいうなら、より高次の欲求から生まれる集団であり、ウェンガーの言う、実践共同体もこれにあたるのではないでしょうか。

林 健太郎

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